「死ぬ」その瞬間に、どうなりたいか。
長らく筆を取る機会がなく、あれだけ高らかに宣言したブログも上半期で書いた記事数は片手以下。
この状況に対して、お前はなにやってたのかと言われると、就活と自分のことでいっぱいいっぱいでした。
どの会社に行こう、どういう風に将来を生きていこう、どうしていこう。みたいな未来でなにをどうするかみたいな話に拘泥して、忙しく過ごしていました。
その分視野は狭くなったと実感しつつ、このブログに舞い戻ったわけですが、なぜ舞い戻ったか。
それは、若干の弱音を吐きたいと思ったし、今抱いている感情や考えをまとめておいたほうが、後々自分の人生に生きそうだと直感したからです。
ということで、今回は長い文章が羅列するのと、支離滅裂なことしか書いてません。
そして今回は、ちょっと人の死に関する話を書いているので、苦手な方は読まないほうがいいと思います。
自分に向けて、それも未来の自分に向けてしか書いてません。きっとこの文章を未来の自分が読んだらどう思うのか、それは未来でしかわかりませんが適当に書き連ねることとします。
まず。今抱いている問を明らかにしておこう。「死ぬ」その瞬間、どういう風にありたいか。それをずっと考えていると、いろいろな感情や感覚、思い出したくないことを思い出してしまった。
高校生の時分、父親宛に電話があった。電話の主はいとこで、切迫した声からなんとなく嫌なことを察したけれど、かいつまんで話すと「あなたのお父さんのお姉さん、つまり叔母さんが危篤だ。最後を迎えるその日が近いから、顔だけでも見せてくれないか」だった。
最初父は拒否したものの、いろいろ話し合った結果行くことになった。息子である私を連れて。
連れて行かれた先に待っていたのは、スパゲッティ症候群の叔母だった。
医師やいとこ達から、スパゲッティ症候群に至るまでの病状や、叔母さんの話をたくさん聞いた。今では殆ど忘却の彼方だが、とにかく聞いていて思ったのは「家族に愛された人だったんだな」ということだった。なぜなら、私が会ったことのあるいとこ達は仕事も休んで、面会に来ていたし、小さな子どもたちでさえ声を掛けていたからだ。
とはいっても、無情にも叔母さんが目を覚ますことはなかった。かわるがわる、面会に来て声をかけても、全く反応がなく、ただ心臓のモニター音だけが病室に響いていた。
その状況で、いとこと医師は話をしていた。会話を聞いても、少々理解ができなかったが、それでも険しい顔をいとこがしているのを見て、いい話ではないんだなと察した。
その後、病室から医師は病室を後にする時「1時間後に皆さん集まってください」と告げた。
1時間後に集まった時、一切の治療行為をやめることを告げ、淡々と医療機器を停止していった。どうやら叔母さんは死ぬずいぶん前から、準備をしていたようだった。
停止させると共に、心臓のモニターが告げる心停止の事実を受け、叔母さんが亡くなったことを医師は告げた。
その時に、病室ではいとこ達はずっと涙していた。それ以外になにも言うことはないほどに、ずっと泣いていた。
その後、叔母さんはいとこ達が主導して執り行った葬式で、あの世へを送り出された。
こんな事を思い出したのは、ある一冊の本がきっかけだ。その本のタイトルは伏せるけれども、ここからが考えたいことを自分なりに考えたことをそのまま書いていく。
「死ぬ」その瞬間に、どうなりたいか。これはまだ答えは出ていないけれども、少なくとも死ぬその瞬間に後悔や未練ばかりを抱いていたくないなと思う。でもそうならないために、できることと言ったら今思いつくのは「選ぶこと」「やること」の2つしかない。
死ぬまでに過ごす日々は、漫然と過ごすこともできるし、何かの使命感に駆られることも、目的を意識することも、多種多様だ。だからこそ、常に、自分はどういう選択を響く出していくか、それが大事なんじゃないかと強く思う。
ただ、選ぶだけではなく、選んだからには、選んだことをやっていく。そうしなければ、日々はただ過ぎていくだけ。選んでやったことを積み重ねていくことでしか、後悔や未練を打ち消すことができないんじゃないかと改めて思う。
少なくとも、今までの後悔や未練は「誰かによって選ばされた」「させられた」ことがほとんどだった。だから、今これを読むあなたが、「自ら選んだこと」の積み重ねで生きていることを願いたいけれども、そうでなかったとしたら、これから選んでいければいいと思う。
もし選んだけれども、後悔や未練が多いというのなら、その環境を抜け出すことも選べることだ。友人や、家族、趣味、仕事、ほとんど全ては自分で選ぶことができる。だからこそ、後悔が多い今を選ぶのではなく、少ない未来を選んで何かをはじめることだってできる。だから、迷ったなら、改めて自問自答を繰り返して、それから選んでほしい。やりはじめてほしい。
叔母さんの死から、今思うのは、家族に囲まれて、死ぬ瞬間を迎えたいなら「家族を大事にすること」に尽きるんだなということだ。それを抽象的に捉え直すと、死ぬ瞬間にどうなりたいかを突き詰めて、その瞬間を生み出せるように日々、「選んで」「やっていく」ことしかないと僕は思う。